サクラクトモノクローム

好きという感情を人に向けた矛にはしない

食べ物だったり動物だったり
マンガやゲームだったり
時には人だったりメガネだったり
こうして綴ることだって
好きなコンテンツがあると、エネルギーが沸き上がるものだ
 
今回はそんな話

 

子どもへの振る舞いとして、意識してることがある
 
レストランでは「大きな声を出してはいけない」ではなく、
「オシャレな場所は、小さな声で話す方が優雅で素敵なんだ」と呼びかける
街中では「走るのはいけない」ではなく、
「ゆっくり歩く方が、お兄さん・お姉さんみたいで素敵だよ」と伝える
周りからどう見られるか、思われるかの視点を、コントロールする術を早いうちに磨く
 
何かにはまったのならば、それにちなんだ褒め方をすると心に響きやすい
漫画やアニメならば、「かっこいい」「強い」というフレーズ
ゆるキャラならば、「かわいい」「優しい」というフレーズを使って、
その子が興味あるものに寄せ、考える力を身に着けさせる
 
子どもの多くは、頻繁に「なんで?」と聞いてくる
ただ答え続けるだけでは疲れてしまう
意味のない無邪気な質問なのに、持たなくてもいい責任感まで持ってしまうと、
答えられなくなった際に苛立ちやプレッシャーがかかってしまい、余計に疲れてしまう
だから、この手の質問には軽く理由もあわせて答えたり、もしくは一緒に考えるのがいい
子供はただ納得すればいいので、答えは適当で大丈夫
「どうして夜は暗いの?」と聞かれても、
「お日様も眠って休まないと、疲れちゃうから」といったその程度
本当のことはまたいつか、自分で考えて、調べて知ればいい
疑問に思ったのならば、それが考えるきっかけにもなり
違うと見抜かれたら、褒められることだし、本当のことを教えてあげればいい
何気ない会話から、物事の本質を見抜く力を磨いてく
私だって、知らないことは普段から何でもgoogle先生に頼っている
 
前置きが好きな子供の事でだいぶ長くなってしまったが、
何でも教えてくれる先生もといインターネットと心に関してのお話を綴る
 

私の中でインターネットは
簡易型拡張情報ストレージである
もはや身体の一部であり、ウェアラブルバイスに近いものと認識している
検索ウィンドウに入力しなくとも、考えるだけ調べられる時代になれば凄く嬉しい
 
インターネット上では、色々な情報が可視化されている
その中には、当たり前のように人間の感情もあるわけで
 
人は、自分と相容れない感情を知るとストレスを感じるものである
インターネットでは現実では知る必要のなかった不要な感情までもが、
毎秒どこからも発信されている
 
例えば、一つのコンテンツが話題となったとき
そのコンテンツが嫌いな人に、何がどうあれ叩く人がいる
そのコンテンツが好きな人に、何がどうあれ擁護する人がいる
ただの勘違いや知識不足によりズレてしまった主張だって沢山ある
そのコンテンツが、いったいどういうものなのか
どういったいいところと、悪いところがあるのか
その性質・本質を語り合う人は少なくなる
 
人には色んな考え方があって
人がどう思って考えていようが、それは本来現実では見えなかった部分
人の感情をダイレクトに受け止めることで、無駄にストレスを感じ、
そのストレスの原因に向き合い続けることに慣れてしまうと、
いつしか己と人の感情に左右されるだけの、感情をコントロールできない人となる
知る必要のなかった側面ゆえに、それを最初から受け止めようとしてはいけない
 
人は、教室やゼミ、会社、人によっては家族だって
小さなコミュニティでさえ、感情の相違からストレスを感じる可能性が沢山ある
もしインターネットという大規模な世界で、現実と同じように生きてしまったら、
ストレスを感じないなんてことはほぼないだろう
つまりは、現実と同じように生きてはいけない仮想コミュニティなのだ
 
可視化された情報社会において大事なことは、
人の感情に対して、自分の感情を当てはめない、受け止めないこと
また、感情に対して感情でぶつかりにいかないことである
それゆえ、私はただの簡易型拡張情報ストレージと名付けている
 
もちろん、誰かと感情を共鳴することには心を和らげる効果もあるし、
好きなものごとは、はっきりと好きだと主張していくのは良いことだ
ただその好きだという感情の矛先を、他人の感情に向けてぶつけあってはいけないだけ
その感情は矛ではなく、ただのエネルギー源なのだから
 
前置きで子供への振る舞いの一例を言語化したのも、ただそれが好きだから
自分や誰かにとって利益となるよう、好きというエネルギーを矛にせず消費できたら嬉しいな、なんて